エッセイ

アルコール中毒の父親に振り回された過去。山口達也さんの不祥事でフラッシュバック。アルコール依存症の治療や症状について思うこと。

2018/05/01

先週からテレビを付けるとTOKIOの山口達也さんの不祥事が流れて来ます。

私はジャニーズ大好きなので「どうしてこんなことに・・・。」という残念な気持ちでいっぱいです。ネットではジャニーズ事務所のタレント全部に対して、ここぞとばかりにネガ発言されている方もいるのも目にしました。

どんな企業でもそうですが、多くの人が属する組織の中で一人でも問題行動を起こすと所属する組織全体が諸悪の根源のように思われてしまったり、その他大勢の善良な人が叩かれてしまうという昨今の傾向。一人の行動が同組織に所属するものの評価を下げてしまう危うさ。

でも、責められるべきは問題行動を起こした本人ですし、謝罪をして襟を正していくのも本人以外の何者でもないのです。

不祥事を起こしたタレントが所属している事務所にも誠実に芸能活動している人もグループもあります。だからこそ、山口達也さんの不祥事は本当に残念でならない事でしたし、非常に悲しい出来事でした。

普段だったら「え!そうなの?」と驚いた後は、サラッと流して気にも留めない私がいたに違いないのですが、今回のこの問題に関してはそうはならなかった。他人の問題なのに、ずーっと頭から離れなくて・・・。

「彼はどうしてこんなことをしてしまったのだろう?」と考えてしまう私がいました。私が頭から離れない、その理由がなんとなく分かったのは

” 自分の父親がアルコール中毒であり、家族だった私自身が共依存症に陥り、父親との関係に葛藤し、もがき苦しんだ過去があったからだ ”

ということです。

アルコール依存症の治療は簡単ではないということ

まず最初に言いたいのは「アルコール依存症」「アルコール中毒」の治療は、簡単ではない。一筋縄ではないかないということです。

家族でさえも手に負えず、一歩間違うと関わる家族も「共依存」という病気に陥ってしまう危険性を伴うということです。

共依存症(きょういぞんしょう)とは?

共依存症という言葉を初めて耳にした事がある方もいるかも知れません。

共依存(きょういそん、きょういぞん、英語: Co-dependency)、共嗜癖(きょうしへき、Co-addiction)とは自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存しており、その人間関係に囚われている関係。

共依存には「人を世話・介護することへの依存」「愛情という名の支配」がある。共依存者は、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、そして相手をコントロールし自分の望む行動を取らせることで、自身の心の平安を保とうとする。アルコール依存症患者を世話・介護する家族らは、患者自身に依存し、また患者も介護する家族に依存しているような状態が見受けられる。

ウィキペディアより 共依存

私自身も家族も「共依存症」だったと思います。

共依存症とはアルコール中毒患者がいる家庭だけでなく、様々な依存(薬物依存、恋愛依存など)の形があります。

また私は「アダルトチルドレン」でもありました。

アダルトチルドレンとは

一般に「親からの虐待」「アルコール依存症の親がいる家庭」「家庭問題を持つ家族の下」で育ち、その体験が成人になっても心理的外傷(トラウマ)として残っている人をいう。破滅的、完璧主義、対人関係が不得意といった特徴があり、成人後も無意識裏に実生活や人間関係の構築に、深刻な影響を及ぼしている。

ウィキペディアより アダルトチルドレン

アルコール中毒の父親の人生がどうなっていったか。

アルコール中毒だった私の父親は既に他界しています。最後にアルコール中毒患者がたどってしまうような悲しい顛末で人生を全うしました。

そう思い起こせば、父親が亡くなったのは9年前。5月1日が命日。この記事を書いているのも何かの縁かも知れません。

アルコール中毒から糖尿病を発症。足が壊疽(えそ)して絶命

父親は糖尿病を発症し、片方の足が壊疽(えそ)。緊急入院しても当の本人は全く危機感を感じていない状態でした。壊疽した足を足の根元から切断せざるを得ない状態まで行って、病院の先生を通じてその症状を通告。それでやっと自身のアルコールの怖さを認識できたようでした。

それまで見舞いで来た親戚と普通に会話が出来ていたのに病院の先生から切断の通告を受けてから全く口をきかなくなりました。その数日後、みるみる衰弱し息を引き取ったのです。

口がきけなくなるほどの衝撃を受けた父は、やっと自分自身が取り返しのつかない状態を引き起こしてしまったことに後悔したに違いありません。深酒がどれだけ身体を蝕むのか、やっとクリアに認識できたと思うのです。

そういう過去の経験を通じて言えることは、アルコール依存症やアルコール中毒患者というのは、そこまで行かないと、自身が激しい後悔の念にさいなまれるほどの苦しさ、辛酸を舐めないとアルコールの怖さを認識できないのだと思います。

これが多くのアルコール依存症の人の意識であるといってもいいのではないか?と思うほど、認識が甘いんです。

今回、山口達也さんが「アルコール依存症ではない」と自身のことを否定していらっしゃいましたが、お酒が原因で体を壊し病院で治療していたということを考えるとアルコール依存症であることは間違いないと思います。

「酒を飲まなければ大丈夫なんだ」という言葉が出たら要注意

アルコール依存症の方の頭の中、考え方は得てして次のような感じになりがちだと思われます。

「確かにお酒を飲むと周りに迷惑をかけているみたいだけど、言ってるほど大したことないでしょ。それくらい許してくれるでしょ。」

と多くのアルコール依存症の人は思っているのではないか?と思います。それくらい自分の症状を軽く見ているというか、正常に自分自身の病的な症状を認識できていないのです。

アルコール依存症の人にアルコールで周りに迷惑行為をしていると注意しても依存症の人の言い訳は次のようなものになりがちです。

俺は酒さえのまなければ大丈夫なんだから酒飲まない時は、全然大丈夫なんだし(何をそんなに神経質になっているんだよ!と怒りがち)。大丈夫だよ!たまたま体調が悪くて悪酔いし、周りに迷惑かけただけだ!だいたいお酒で酔ったらみんなそういう風になるだろう?俺だけじゃなくて。」

などの言葉が出てきたら要注意です。

酒さえ飲まなければ・・・。

私も何度となく父親に注意しても毎回「酒さえ飲まなければ」の一言ばかりを言い訳にされました。この一言が出てきたら、自身がお酒に飲まれてしまっていることに気付いていても自身の状態を軽く見ていると思っていいでしょう。

24歳で母を亡くしアルコール中毒の父親と過ごした時間が人生の中で最も辛い時期。毎日死にたいと思っていた。

私が24歳になったばかりのある日、突然母親が亡くなりました。驚きと深い悲しみと同時に子供の頃から怯えていた父親と一緒に暮らして行かなければならないという現実に直面し大変動揺しました。当時の私としては父親の存在はとても恐ろしく大きなものでした。一緒に過ごしていく自信もない。

しかし、母親を失って悲しい寂しい思いをしている父親をそのままにしておくことも出来ない気持ちも多少ありました。そして仮に父親がそんな状態で家を出たとしたら、親戚は許さないだろう。世間は許さないだろう。親不孝と罵られるだろうと。世間の目を気にする私がいました。いつも父の機嫌を損ねないように常に父の状態や周りを観察し、周囲の気持ちを優先させる癖がついていたためです。「自分がどうありたいか」ではなく、「周囲はどうして欲しいか」を優先させる思考回路でした。

対人関係が怖かったんです。人と衝突することが極端に怖かった。意見を言って人とぶつかり合うストレスは耐えられない。だったら自分が我慢すれば丸く収まるんだから・・・と自分の気持ちを押し殺していました。この頃は親戚や世間の意に逆らうと叱られる。見捨てられると、そう思っていました。自分が孤立することが非常に怖かったのです。

それとは別に、もう一つ、私の心の中に湧き上がったものがありました。

「もしかしたら母親が亡くなったことで、今度こそ本当にお酒を止めてくれるかもしれない。」そうしたら一緒に暮らせて行くこともできるかも知れない・・・という期待。

子供ながらに「いつかお父さんの酒癖が治ったら。お酒を止めてくれたら。みんなが幸せに暮らせるのに。」という強い願いがありました。

しかし、その期待は見事に裏切られます。

家の場合、父親の酒癖はひどくて警察沙汰しょっちゅうでした。母親が亡くなると更にその問題行動は頻繁に起こるようになります。問題を起こすたびに周りに迷惑をかける度に、周りに迷惑をかけるからお酒を止めて欲しいと何度も何度も懇願します。

問題行動を起こした直後は本人はもちろん反省します。その都度「今度こそは酒を止める。」と言うし、数日は飲まない日が続きます。しかし永続的にその約束が守られることはないのです。

うちの場合は次のようなことが延々と続きました。

▼ 父親がお酒を飲んで暴れる

▼ 酔った父親を迎えに来て欲しいと連絡が入る(会社の人、近所の人、警察、etc...)

▼ 迎えに行き迷惑をかけた方々に頭を下げ謝罪。場合によっては父親のことでなじられます。嫌な思いをしてもグッと我慢し、千鳥足になってわめき散らす父親をやっとの思いで自宅に連れて帰るも、更なる深酒で飲んで暴れる父親に手が負えない。

▼ 自宅にいられないから逃げ出す。(何度も殺されそうな目に合う)

▼ 帰りたくないので近所の温泉ランドや信頼できる友人宅に泊めてもらったりして何日かほとぼりが冷めるのを待つ。(自分の心の傷も癒したい)

▼ しかし寂しくなった父親が私の会社に酔って電話を掛けてくる、会社のロビーに来てしまう。

▼ 私自身の会社勤めにも支障が出てくる。

大抵、朝の3〜4時ぐらいに自宅の電話が鳴ると警察からの「お父さんが問題起こしたので警察署で身柄を預かっています。迎えに来てください。」の電話です。

もう、電話に出たくない。

電話が鳴る度に「また何か問題起こしたんだ・・・。」と心臓がドキッとして、深い絶望感に包まれます。

父親の不祥事を聞くと、全身から力が一気に抜けるのも分かりました。サーっと血が引く感じ。その度ごとに大きな脱力感と失望感を味わいます。そんなことが続くと明る希望が見出せなくなってきます。生きていることがツラくなってきて「できることなら死にたい。」と思うようになりました。

んーーー、というか、小さい頃からですね。幼稚園児ぐらいの頃から私は自分の意識があって、なんでこんな家庭に生まれて来てしまったのだろうと大変後悔していた記憶もあります。とにかく家庭内の状況に絶望していました。

小学校の1年生までは大好きなおばあちゃんと同居していたのですが、おばあちゃんに懐いているのが気に食わないと父親が同居を止めて、知らない街に引っ越すことになりました。

おばあちゃんと一緒に生活していた時は、父親が間違った行動をした時、例えばいきなり癇癪をおこして怒鳴られたり、椅子などの物を投げつけられたりと私が不当な扱いを受けた時におじいちゃんとおばあちゃんが私のことを守ってくれていました。しかし同居できなくなって、私の安全な場所はなくなりました。子供ながらに見えない不安に怯えながら生活することになります。

酒で破綻した結婚生活だった父と母。自分の人生を悲観した子供時代

父が間違った行動をとった時に叱ってくれる祖父や祖母が側にいなくなってから、父の酒癖の悪さは益々エスカレートしていきました。母親と喧嘩が絶えず、母はいつも泣いていましたね。どうがんばっても力の強い父に勝てるはずもなく。暴力も受けていました。耐えていました。そんな悲しい母の姿を見て、父に刃向かったところで助けることも止めることさえできない。自分の無力さを思い知らされるのです。

そんな破綻した両親の結婚生活を見て育つと、自分の人生に明るさを見出せなくなってしまいます。結婚が幸せなものではなく、辛く苦しいものとしか感じられない私が結婚が遅かったのも当然といえば、当然です。結婚できたことが奇跡といえるかも知れません。

おじいちゃんとおばあちゃんと同居できなくなってから、もともと明るかった私も元気に振舞えなくなり、性格も暗くなりました。子供自体に病弱だったのも無意識に自分の人生を悲観していたからだったのかも知れないなと今になって、そう思います。

とにかく自分が大人になるまでは息を潜めて生きていくしかない。早く大人になって、この家を出ていくしかない。小さい頃は、そう思って生きていました。

そして「普通の家庭」が羨ましくて仕方がなかった。

お父さんに甘えられて、大好きだという同級生が羨ましくて、羨ましくて仕方がなかった。「どうして私はこんな家に生まれてきたんだろう」と子供ながらに悲観にくれていました。

アルコール依存症の人は酒による問題行動を覚えていない事が多い

そんな中でも唯一幸いだったと思えるのは、うちの父親が遠洋漁業の船員だったので毎日家にいなかったということです。

父は遠洋漁業の船乗りで2ヶ月くらい海へ出て行き、漁が終わると海から帰って来ていました。陸に上がると1〜2週間ほど家にいました。年に一度1ヶ月ほど長期の休みがあり、この期間が家族にとっては非常に長く重く苦しい時間でもありました。この期間が近づいてくると気分がドーンと落ち込んでしまっていました。それくらい嫌な時期だったのです。

一度父親が帰ってくると、母親が父親の保護者のような役割になります。

父が飲み屋に行く時は、必ず一緒についていくのが当然でした。そうしなければ、父親が暴力沙汰を起こしてしまうからです。そして父親が帰ってくると、私達子供の夕飯を作る暇もなくなります。母親が父親から少しでも離れると浮気をしていると言って母を困らせるのです。トイレに行くのも大変です。泥酔していると時間感覚がないのか、ほんの5分も側にいないと母の名前を大声で呼びまくる父でした。そんな状況でしたから、私達の夕飯を作るのもお風呂に入るのも父親が寝てからでした。

父親は船乗りなので睡眠時間が短くて、寝ても数時間で起きてしまいます。父親が寝落ちするのを息を潜めて2階の部屋で身を隠し、じっと待っていました。少しでも物音を立てると父親が起きてしまうため、物音を立たせると母親からひどく叱られたのです。

父親が寝るとその時間を見計らって食事をし、お風呂に入れれば入る・・・といった生活を私が高校を卒業するくらいまで送っていました。物音を立てて父親に気づかれると、朝まで延々と説教や同じ話を何度も何度も聞かされます。それは本当にしつこくて、しつこくて。

私が20歳の誕生日前に急性肝炎で緊急入院した時も数日前から具合が悪くて寝込んでいた時も布団の側で酔った父に無理やり起こされて、延々と説教されました。具合が悪いから寝かせてくれとお願いしても「父親に対する態度がなってない!」とお怒り。自分が入院できた時は正直、ホッとしました。「これでやっと休むことができる。怯えることなく安心して眠れる。」と。

その後、正気に戻った父親が「なんで具合悪いのをすぐに言わなかったんだ」と病室で言われたので「なんどもなんども言ったよ。」と説明しても覚えてないのです。

そうなんです。

アルコール中毒の人は、自分が酔っている間のこと。他人に迷惑をかけてしまったことや問題行動をしてしまったことを全く覚えていない事が多いのです。記憶もない。忘れてしまっていることも多い。だから自身の泥酔によって自分がどれだけ周りに迷惑行為をしているのかを認識できていないため、何度も何度も同じ失敗をしてしまうのです。

自分の父親に怯えながら生活しているという様は、普通の家庭環境に育った人から見ると考えられないことですよね?程度の差はあれ、今もどこかでアルコール依存症の親を持った子供は、そういう環境に息を潜めて生きていると思います。

幼い子供だと不満があってもそこから逃げられない。そこに生まれてしまったからには、その運命を受け入れるしかないのです。子供は一人では生きていけませんし、親も選べない。どんなにオカシイと感じていてもその家庭環境の中のルールに従って我慢するしか生存する方法はないわけです。

じゃぁ、大人になればできるのか?というと、実はそれができない場合もあります。

それは家族が共依存関係に陥ってしまっている時。問題行動をしている人から離れられない精神構造に陥ってしまっていると、問題行動を起こしている人から離れられない人もでてきます。DV(ドメスティック・バイオレンス)を受けている妻が暴力を振るう夫から逃げられないという不可思議な事があるのは、そこにお互いを必要としてしまう病んだ精神構造が「共依存」の関係が構築されてしまうためです。

こうなってしまうと、依存症の本人だけでなく、家族も一緒に依存症を乗り越えていく、治療して行かないとその泥沼から抜け出せなくなるのです。もちろん私も知らず知らずにその共依存症に陥ってしまっていました。

アルコール依存症の人は懲りない。何度も同じ失敗を繰り返す

私が中学生ぐらいの時でしょうか。父が肝臓病を患って、何度か病院に入院して治療していたこともあります。しかし治療中にも関わらず病院で酒を飲んでしまい、病院側からも他の入院患者にも迷惑がかかるし、面倒みきれないと強制退院させられていました。

とにかく飲酒が止められない。
自分の体を壊してもです。

それがアルコール依存症、アルコール中毒という病気でもあり、怖さなのです。

とにかくアルコール依存症の人は、懲りない。

自分が酒に溺れて問題行動を起こす事が分かっていても「これくらいいいだろう・・・。」と自分に甘い判断を下しがちです。そして毎回、毎回、同じような失敗や不祥事を繰り返して、関わる人たちを悲しませ、辟易させます。

問題行動の責任を人に拭って貰ってもらおうとする

そんな家庭環境の中で、父親が起こした不祥事や問題を母親が謝罪し、頭を下げてまわり、問題を解決していく様を子供ながらに見て育ちました。

家族の不祥事は家族が償うもの」という考え方が子供ながらに正しいと思ってしまったようです。母親が亡くなった後、その母親の役割を私が担うようになりました。

そして、父親もそれが当然と思っていたようです。

自分がどう思っているのか家族が理解しているのが当たり前。逆に理解されていないと腹をたてる。人の気持ちがわからないと嘆き、責める。「母子一体感」が強く反映されたような心理状態の父がいました。

この病的な考え方を認めてしまうと、共依存の輪に落ちてしまいます。

私はそこへ落ちてしまい、自分の事よりも他人の事を優先してしまう精神構造が出来上がります。自分の幸せを追求するのが、まるで罪。悪い事をしているよう感じてしまうのです。

また母親がとにかく人様を最優先で考えるようなことをしていたのにも強く影響されていました。何かいいものを誰かから頂いても「これは上等だから私達が使わずに。(私達は使う権利がないという感覚です)誰か人にあげよう。私達は贅沢しなくてもいい。(する価値がない)」というような事をよく口にしていました。贅沢もしちゃいけないみたいな、そんな感じです。だから父のような人に無茶難題をされても我慢ができていたのかも知れないとも言えます。

そんな感じで人の気持ちを優先する事が大切な事だと教育されてきたためか、自分を優先することがなかなかできずにいました。また自分を優先するようなことをしようとすると、そんな自分が利己的でダメなんじゃないかと自分を責めることもありました。

数々の父の問題行動で一緒に暮らせなくなる

もともと小さい頃から父のお酒の問題に悩まされていたところに、更に追い立てるように父の酒による問題行動がエスカレートしていきます。

ある日、酒屋から7万円近くの請求書が届きます。酒屋に理由を聞くと父がお酒を注文したとのこと。父に問いただすとムシャクシャしたから酒を注文して飲むのだとか。生活のやりくりに奔走することに。

ある日、自宅に戻ると部屋が煙い。台所に行ってみると父が酔って魚グリルに魚を入れたまま寝てしまっていました。もう少しで火事になるところだったかも知れないとヒヤヒヤ。やっぱり父を一人にはできないと思ってしまいます。

またある時、父がいないと思って探すと風呂に浮かんでいる父がいました。どうやら酔ったままお風呂に入り、そのまま寝てしまったよう。水温が下がっていて、このままお風呂に入れたままだと死んでしまうかも!と慌てて、真夜中に友達を呼んで真っ裸の父親をお風呂場から引き上げたこともあります。とても恥ずかしかったですね。

またある時、電話が鳴ります。電話の主はラブホテルの管理人。父が宿泊した代金を払わないので支払って欲しいとの電話。一体誰と行ったんだ・・・子供ながらに呆れました。行くなら子供に分からないようにして!

またある時は「10万円持ってこい!と。今から女を買いに行くんだ」と父に言われたことも。娘として非常に複雑。聞きたくない言葉でした。

またある時、船から上がってその足でスナックに行った父が給与の現金50万円近くを落としてしまいます。事件を取り扱う警察署で暴れているから迎えに来てくださいと派出所から呼び出されました。迎えに行くと自分が(父が)泥酔して、お金をすられたか、落としてしまい非があるのに、それが認められず、盗んだ相手を捕まえられない警察官が悪いと喧嘩をふっかけていました。

生活費全部落としてきて、泣きたいのはこっちです。私も腹が立って父親を責め立てたところ、警察官になだめられました。その後、自宅にタクシーで連れて帰りましたが、虫の居所の悪かった父親はまた飲みにくと言って、そのまま飲み屋に出かけて行きました。

そんなことが次々に起こり、その度に迷惑をかけた相手に頭を下げて回る日々。悲しく、やるせない気持ちでいっぱいになって行きました。父と2人で暮らすことになって3年が経過する頃には、私の心は砂漠のようでした。

父親ともう一緒に暮らしたくない。家を出たい・・・。

しかし、親戚は私が父の側にいないとお父さんはダメになる。お父さんの側にいてあげてと言うのです。「親不孝しないで、お母さんが悲しむよ」と父と離れること、自立することを止められていました。

親戚も私がいなくなって父親から迷惑行為を受けることを恐れていたのもあると思います。もちろん、その気持ち分かります。私が逆の立場だったら、酒乱の人と関わりたくないですもの。

まるで人身御供。

父親のために私の人生を諦めろってことなのか。
私が父の犠牲になればいいんだ。

なんで?

なんで、私は同世代の子と同じように恋愛を楽しんだり、自分の人生を謳歌したらダメなの?
なんで、私ばっかりこんな目に合うの。
なんで、私ばっかり我慢しなきゃならないの。

こんな父親がいる限り、私はまともな恋愛も結婚もできない。
私は父がいる限り、幸せにはなれないんだ。
ずっとこうやって、父親の世話をして振り回される人生なの?(誰か助けて)

父親のせいだ。
父のせいで、私の人生は台無しだ。

父が憎くて、憎くて。
でも見限ることもできないジレンマに苛まれていました。

父との生活に疲弊し「うつ病」を発症。救いの神現れる。

しかしジリジリと私は精神を病んで行きました。

もうダメだ。心が壊れると思った時に救いの神が現れました。その救いの神とは、その頃知り合った看護婦さんです。

私にとっては私の運命を切り開いてくれた救いの神でした。

精神的に耐えられなくなっていた私は、彼女に身の上を相談し「心療内科」を受診することを強く勧められ「うつ病」と診断されたのです。

まさか自分がうつ病に・・・

その頃は、鬱病がこれほど当たり前になるような病気として認知していない時代。とてもひどい精神病になってしまったと動揺したのを覚えています。

看護婦さんは「心療内科で処方された薬は飲まないこと。そして、あなたの父親から離れなさい。」「もう十分すぎるほど、あなたは父親に寄り添ってきたんだよ。もうこれ以上、側にいる必要はない。お父さんの問題だから。」と言ってくれたのです。

親だからといって、自分の人生を犠牲にしなくていい。
あなたはもう自分の人生を生きなさい。

この時の私は「私がいないと父はダメになる。父は生きていけない。」と思い込んでいました。そして父親の犠牲になっている自分に酔って私の存在「自分の価値」を父を通して見出すような共依存症の真っ只中にいたのです。

そして、決定的なことが起こった

何が原因だったのかは忘れましたが、父と激しく口論することがありました。酒に酔って正常な状態出なかった父に首を締められました。もう少しで殺されてしまうんじゃないかという恐ろしい剣幕で、首から手が離れた私に包丁が向けられた時に「これはマズイ」とにかく逃げなければと、私は父親から逃れるために着の身着のまま自宅を飛び出しました。

数日間、自宅には帰れませんでした。

しかし、それでも父親が心配だったんです。これが共依存のなせる技なのでしょう。あんな目にあっても寂しがりやの父親がどんな生活をしているのか気になって、夜に自宅の窓越しに父親の様子を見に行きました。窓越しに見る父は今にも泣きそうなとても悲しい顔をしたままテレビを見ていました。その悲しそうな顔をみると、本当に自分が悪いことをしているかのように感じ、自分を責めてしまいそうでした。

お父さんは病気なんだ。自分でもどうにもできない病気なんだ。やっぱり見捨てることなんて出来ない。でも、私は苦しい。嫌いになれないけど、でも好きにもなれない。ずっと葛藤が続きます。

その日は自宅に戻ることは出来ませんでした。それから数日経って、父が不在時に自宅に戻り自分の部屋に戻った時に自宅を出る決心がつきました。

私の布団。ベットが包丁でズタズタに切り裂かれていたのです。

ああ、やっぱりあのまま逃げなかったら私は殺されていたんだろうな。そう思ったら悲しさが込上げてきました。アルコールさえ飲まなければ、本当にいい人なのに。誰もが父のことをそう言っていました。私もそう思っていました。悪いのは父じゃない。酒だ。

でも、本当にそうでしょうか?

悪いのは酒ではありません。酒に酔って正常さを失ってしまった中毒者本人です。

酒に飲まれて、正気を失っている人はやはり狂ってしまっています。正常ではないのです。だからいくら正論をこちらが語ったとしても理解できない状態なんです。まともじゃないんです。

ここで私は父親のことをアルコール依存症と表現せず、アルコール中毒と表現している理由があります。私は専門家の治療を受けてお酒との関係を断ち切る事ができる、自身を正常に戻す事ができる人の状態を「依存症」だと考えています。

うちの父親は依存症を通り越して「中毒化」していたと思っています。中毒化すると、本人の自覚や意思だけでは、治療が困難。家族でどうにかできる領域を超えてしまっていると思うのです。

アルコール依存症の人が酒に酔って起こす問題行動は、酒のせいではありません。酒は本心を引き出す、引き金となるだけです。

ひとりでがんばり過ぎなくていい

そんなどうにもならない父親を誠心誠意支えていた母が突然亡くなってしまいます。アルコール中毒患者はその行いによって、大切な家族を失ってしまうのです。いつも普通にあったその風景は失って初めて、どれだけ大事なものだったのかを痛感できるものです。父もまさにそうだったと思います。

母が亡くなったのはいろんな要因が重なってしまったと思うのですが、死の原因は「心労」と「疲労」の両方が重なったためだと私は思っています。

母は亡くなる1年前に父方の母親の世話をすることになりました。

うちの父親は島育ちで兄弟が何人もいました。父親が若い頃から酒癖が悪かったようでうちの父親のお父さん(私から見るとおじいちゃん)が亡くなった時に父親の母親(痴呆で介護することになった)は、うちの父親だけを島に置いて、他の兄弟を連れて県外に出て行ったそうです。

後で知ったことなのですが、うちの父親とうちの母親が結婚した時に父親の戸籍がなかったそうです。そのためうちの母方の婿養子として父は迎えられました。過去に何があったのかは分かりませんが、戸籍がなかったという事実からも父親の幼少期が幸せなものではなかったのかもしれないと想像できます

もしかしたら、この辺に父が酒に救いを求める、酒に逃げた原因があるのかも知れないと思いました。

うちの父の母親は島を離れ県外で仕事も得て、裕福に他の自分の子供達と一緒に暮らしていたそうです。しかし彼女が痴呆になってしまったら、彼女の子供達は面倒を見れないということで、ある日、父方の兄弟姉妹がうちに県外から集まり「母親の面倒を見て欲しい」と一週間以上も滞在してうちの母親を説得していました。

うちの母親はとても優しい人でした。アルコール中毒で酔って暴れる酒乱の父親に常に寄り添う母親を周囲の人は「あんたのお母さんは仏様のように優しい人。あんたのお母さんのような人はいないよ。」と言ってくれるほどでした。当時アダルトチルドレンでもあった私から見ても母は「お人好し」過ぎました。純粋な人過ぎました。そこが仇になったんだと思います。優しすぎたために父親のアルコール中毒と共依存の関係二陥ったのだと思います。そして父は、その母の優しさに甘えすぎたて早くに母を失ってしまったのです。

父親自身は介護することすらないのに酒に酔った勢いに任せて「俺が面倒をみる」と母の反対をよそに勝手に引き受けてしまったのです。

結局、面倒見るのは必然的にうちの母親と私でした。痴呆症で徘徊して回る父方の母を引き取って、慣れない介護生活が始まりました。介護しだして母はイライラしていることも多くなり、仕事から帰ってくると愚痴の量も増えていきました。

その時に私が今ほどの思考と経験値があれば、すぐに近所の民生員さんや役所や公的機関に相談に行って解決を図ったと思います。しかし、当時は介護疲れがどのように大変な状態であるのか理解もせず、自身も昼間は仕事をしていて母親の辛さを分かち合って上げる事ができていませんでした。

今となっては「お母さん、一人だけツライ思いやキツイ思いをさせてしまって本当に本当にごめんね。」と心の中で詫びるしかない。

今でも忘れる事ができないのは。母が亡くなって遺品を整理している時に母の日記帳みたいなものを見つけページをめくった時に書かれてあった内容です。正確には覚えていませんが母はこんな事を書き綴っていました。

「父が怖い。恐ろしい。どうしてこの人と生活しなければならないんだろう。できれば逃げたい。祖母が死んでしまって、私も生きている張り合いがない。」

母は父から逃げたかったんだと思います。私だったらそうします。でも母には手に職がなかった。だから私達子供を育てるために自分を犠牲にしていたんだと思います。心が痛みました。そんな母の生き様が悲しいと同時に強い人でもあったんだと思い、育ててくれた事に感謝しています。

父親が航海から帰って来れば、アル中で暴れまわる父親の世話もしなければなりません。母親の負担は並大抵のことではなかったと。そんな状況で命を削っていったのだと思います。

突然の母親の死に動揺し、悲しみにくれる私に対して「今度はあなたが(私)父の母親の介護の面倒をみてね」と言い出す父方の親戚がそこにいましたね。

何言っちゃってるの?
だって、どう考えてもオカシイでしょ!

介護が必要になった父の母親には、一緒に県外に連れていった実の娘、実の息子が健在でした。だったら実の娘や息子が面倒をみるのが筋でしょう。母方の親戚とは小さい頃から交流もあり大変お世話になっていましたが、いきなり介護してと連れてこられた父の母親や父方の親戚との交流は私が社会人になるまで、全くなかったのです。

糖尿病と痴呆症を発症し、徘徊癖がある父の母親を実の娘や息子が介護を放棄して、血のつながりからみただけの孫にあたる24歳の私が介護しなければならないのか納得が行かないし、若くて社会経験が乏しかった私から見ても都合良く介護を押し付けられたとかしか考えられない。

私が若いから何も分からないとでも思っているんだろう。怒りさえ覚えました。そして・・・。

私が、しっかりしなければ!
つけ込まれないように強い自分でいなければならない!

と、ここで意固地になってしまった私がいます。

用心深いことに越したことはないのですが、ここで性格が少しズレてきた、歪んできたのかも知れません。さらに生きづらくなるような考え方をしてしまうようになったんだなと今振り返ると思います。

しかし、それも当時の私にとっては必要なことだったのでしょう。そうでなければ自分自身を保っていられなかったのかも知れません。

私と同じ世代の方(アラフィフ・アラフィー世代)が直面している「介護問題」も、このように理不尽なことも多々あるんだろうなと想像できます。

そしてこんな経験を通じて思うのは、いま介護問題に直面している方にお伝えしたいのは「自分一人でがんばらない。」ということです。

これは山口達也さんのようなアルコール依存症、もしくはその家族の方にも共通して言えることだと思います。私がこの記事を書きたかったのは、この一言を伝えたかったからかも知れません。

つらい時は、ひとりでがんばり過ぎないで!

ということです。

ひとりでかんばらなくていい。
正しさを貫かなくても良い。
ダメでもいい。
弱くてもいい。
強くなくてもいい。
カッコ悪くてもいい。
つらかったら、ツライ、助けて!と叫んでも恥ずかしくなんてない!
さみしかったら、さみしい!といっていいの。

私たちは、人の間でしか生きられない。

お互いにお互いを頼りに生きている生命共同帯なのです。よく考えてみてください。生まれてきてから誰にも世話にならず、迷惑をかけず生きてこれた人は誰もいません。

どんな人も誰かのお世話になり、生きているんです。自分が生き生きとポジティブに健康で生きている時は気がつかないこともあります。自分が気を病んだり窮地に追い込まれたり、病気になったからこそ分かることもあるんです。人生の意味を知ることもあるのです。

一人でがんばると精神を病みます。
自分自身が一番守るべき自分が壊れてしまうのです。

自分にとって一番大切なのは、家族でも恋人でもありません。
自分自身にとって一番大切なのは、自分自身なのです。
自分のことは、自分でしか守れません。

自分を愛することができて、初めて周囲の人も同じように愛せます。
だから自分を愛しましょう。

自分を愛せなくて、枯渇した心の空洞を他の人の愛情で満たそうとすればするほど、相手に依存して自分を見失います。
人に必要以上に愛されようと無理な努力をする必要はないのです。

私は父親と3年近く過ごした時に最後の半年くらいで精神を病みました。生きている気力がなくなり「死にたい。」「生きている意味がない。」「こんな私を愛してくれる人などいない。」と思い込んで鬱状態に陥りました。

私と同じようにそんな苦しい思いに苛まれている方がいたら、そんな苦しさ捨ててしまって欲しい。

もっと楽に生きていいんです。

だって、誰でもないあなたの人生なんだから。あたなの人生はあなたのもの。誰もあなたの人生をコントロールできない。あなた以外の誰かにあなたの人生をコントロールさせてはいけません、それを許してはいけないのです。

アルコール依存症を克服したいなら、絶対に必要なこと

アルコール依存症に陥っている人を更生させたいと思った時、どうしたら本当にアルコール依存症を克服できるのか?と必死で情報を探していると思います。

うちの家も市役所などの相談窓口に行ったり、断酒会などのアルコール依存者の更生のための自助グループに助けを求めた事もあります。確かに利用して一時的に治ったような状態になることもありました。しかし長くは続かない。すぐに酒に溺れてしまう父親がいました。もう、堂々めぐりなんですね。ループ状態。

そんなお酒にまつわる苦い経験を実際に体験した私が思うのは、アルコール依存症というのは、周りがいくら心配して必死になっても完治しないということです。

もちろん周りの適切なサポートは必要です。

しかしこの適切なサポートというのが難しいんです。依存者に対して愛情があるほど、深ければ深いほど自身も「共依存症」に陥ってしまうし、過保護になりかねない状況を生み出して治療を遠ざけてしまうということも起こりがちです。

本気で依存症を克服したいと思った時、絶対に必要なこと。それは・・・。

本人が「自分が依存症であり、病気なんだ」と認識すること自覚することそして「依存症を治したい」と本気で思うことです。

もうこれしかないと思います。本人が自分が「依存症」という病気なんだとしっかりと認識して、治したいと強く思うこと。

根底にこの気持ちがないと、いくら周りが心配してお世話をしてもムダ。

父を「断酒会」などの自助グループに連れて行きましたが、本人にアルコール依存症だとういう強い自覚がなく、周囲に言われて仕方なく行ったままだと結局元の木阿弥。治療は続かなかったのです。

しかも今度こそは・・・という家族の期待も何度も何度も裏切られてしまうと疲弊してしまい「どうせやってもダメだろう・・・」とやる前から諦めモードになってしまい悪循環となってしまいます。

依存症の人は、自分を世話してくれる、尻拭いしてくれる人を本能的に分かっているかのよう。自分の情けない姿を見せて、構ってくれる人、助けてくれそうな人にすがりつくのです。それはきっと無意識にやっていると思うので、タチが悪いと思います。

だから甘えがひどい時には冷たく突き放すことも必要です。

情報番組で語られるコメントを見て感じたこと

今回の山口達也さんの不祥事に関して、情報番組では様々な意見が飛び交っていました。とにかく本人が悪いと責め立てるコメントもありました。

実際、山口達也さんがやってしまったことは「あってはならないこと」でした。

私も大人になっても酒で真っ赤に染まり、ギロリとこちらを睨み付ける父親のすわった目がとても怖かった。大きな身体の大人が大声で怒鳴り散らして暴れている姿はとにかく恐ろしい。そんな幼少期の記憶からか、今でも職場や公共の場所で男性が大きな声を発すると「ドキッ」として体が萎縮してしまうほどです。

被害者の女性がどんな状況だったか分かりませんが、泥酔した彼の姿を見たことがなかったのかも知れません。慕っていた人が恐ろしい形相で暴言を吐いていた姿を見て驚いたのかも知れません。

彼も普通に大人の女性と恋愛していれば何も問題なかった。男性は若い女性が好きですから、好きでいるのは本人の勝手ですからそれでいいと思います。ただそれを行動にうつしてはいけなかった。相手は未成年です。

それが出来なかったところに彼の問題点が潜んでいると思います。

若い時から女性にモテて、テレビで活躍し、多くの女性からキャーキャー言われ続けてきた彼が、ひと言声をかければ簡単に女性を口説けたのでしょう。そのような感覚で生きてきて軽い気持ちでやってしまったことなのかも知れません。

また過去に同じようなことがあっても事務所が上手に処理してくれたのでしょうと想像もできます。ただ今回はそれが通じなかった。本人も騒ぎが大きくなって、仕事も失うかも知れない状況になって初めて事の重大性を認識したと思います。

もともと彼は、酒癖が悪かったようですね。今回のことがなくても、いつかは何かしら問題を起こしていたかも知れません。いや、問題を起こす前に酒で身体を壊してしまったかも知れません。

彼にとっては大変辛い状況だと思うのですが、まだ健康体に戻れるチャンスも残されています。この辛い状況を「自分を変えるチャンス」だと思い直してアルコール依存症を克服して欲しいと思います。

どうして、自分は酒に溺れてしまうのか。
酒を飲まないと解放できない心に溜まった鬱積したものとは一体なんなのか?
自分が恐れているもの。自分が見たくない本心とはなんなのか?

勇気を出して自分自身と向き合って欲しいです。

今回のことも周りが解決してくれると甘えたことをやってしまうと、将来寂しい人生を送ることになります。うちの父のように誰も寄り付かなくなり、娘も自分の元から去り、誰も構ってもくれない人生。あとは自分の寂しさを酒で埋めていくだけ、身体を壊して痛い思いをするだけの人生が待っているだけです。

元東京地検特捜部副部長だった若狭勝さんがおっしゃっていた通りアルコール依存症患者は「酒を飲んで覚えてない。覚えてないことが多い。」のです。

山口達也さんが会見中に女性被害者とのことを聴かれて「・・・そうだったかも知れません。」とはっきり答えられなかったとこを責めているコメントもネット上でありましたが、若狭勝さんが「記憶が断片的だと、断言しない部分が多い。」と話されていたのを聴いて、なるほどと納得させられる部分でもありました。

アルコール中毒の父も酒で酔いが回った時の言動や行動を覚えていないのです。なので山口達也さんが覚えていないと話していることも、あながち嘘でもないのかも知れません。また警察から事情聴取された時には既にかなり時間が経ってしまった後で、記憶も曖昧だったかも知れません。

弁護士 佐藤大和さんは、弁護する側の職業という立場から見て「記者会見で極度の緊張感だった中での発言であったために上手に自分の気持ちを表現できなかったのかも知れない。」と話していたように、そうかも知れないなと思うところもありました。

ネット上では彼に対する辛辣なコメントも多く寄せられていました。確かに常識ある皆さんのおっしゃる通りですし、正論です。お酒を言い訳にしてはいけない問題です。

ただ被害者側からのコメントで「ただ、娘にも山口にもこれからがあります。この過ちで一人の人間の未来がすべて奪われてしまうことは私達も望んでおりません。山口氏には娘の心の傷に向き合いながらこれからを考えていただき、また、娘についてもそっとしておいていただければ。」とありました。

山口達也さんのやってしまったことは、あってはならないことです。

ただ連日テレビで彼のことは全国の人に周知され、人としての信頼は失墜してしまいました。一夜にして仕事も失いました。30年以上作り上げてきた社会的地位や仕事を全て一瞬にして失ってしまったのです。社会的制裁も十分に受けたと思います。

被害者の償いをするためにも、そして彼自身の人生をやり直すためにも生き直す、生まれ変わって欲しいと思いました。

人生で一度も間違ったことがない人もいないと思います。
うっかり足を踏み外してしまうこともあるかも知れません。

私は、ジャニーズ事務所の東山紀行さんの「突き放すというより、彼がここからどう人生を学んでいくのか見ていきたい」というコメントに内心ホッとしました。こういう方もいてくれてて良い。

突き放すこと、見放すことは誰でもできます。でも人が足を踏み外したことを懺悔し、償いをしようと改心し、人生を更生しようとする時には、周囲のサポートは必ず必要になります。見守ってくれる人がいるというだけでも、どれだけ心強いものでしょうか。

そして、TOKIOのリーダー城島さんの厳しいコメントも彼にとっては今一番必要だと感じました。

アルコール依存症の人の問題点は「甘え」です。

甘えた人生観を修正するためには甘えを許さない厳しさも必要なんです。

その点で、城島さんのコメントは厳しさで彼の自覚を促し、気づくために必要なのです。突き放されて初めて自分の状況が理解できる人もいます。

長々と書き綴りました。山口達也さんの涙ながらの会見を見て、私の中の父親との葛藤の記憶が呼び戻されて、様々なことを振り返る日となりました。

私が共依存症やアダルトチルドレンとなり、人生を生きづらく感じていたのをどうやって克服してきたのか。いつかまた語りたいと思っています。

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